郷土の画家 野賀岐山

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郷土の画家 野賀岐山

野賀岐山 のが きざん
子弟教育に当った人。

岐山は小笠郡南山村高橋の人、名は信豊、字は忠平、通称を太郎一といい、岐山はその号である。文政七年に生れた。
岐山の父を保名といい、学問もあり、誠実の人であったから、子弟を教えることが、慈であり、厳であった。母も亦貞淑方正をもって聞えた。この家庭に人となった岐山は、その薫陶を受けて、温淳にして慧敏、幼時から斬然として頭角をあらわしていた。常に紙筆を弄して娯みとしていた。

十歳の時、書を扇田袴田勝彦に学び、又山内東海に就いて経史を学び、兼ねて諸子百家に通じていた。こうして学問に励みながらも、生業棄てず、昼は農に従い、夜は孜々として学芸に力めたのである。やがて江戸に遊び画を喜田武清に学び、傍ら市川米庵・菊田伊洲・大西椿年等に書画の法を問い、大いに得るところがあった。時に青山侯の封地が遠州にあったので、侯は岐山に嘱して、その地の山川村落の図を描せたが、その図は精妙を極めていたという。

二十五歳で家塾を開いて子弟の訓育に従事した。元治・慶応の際に至って門人益々多く、塾舎も狭隘を告げるようになった。
 その頃推されて里正となり、村治のために尽瘁した。家にあっては教育に当り、外に出ては民利を図り、ひたすらに心身をくだいてつくした。中でも灌漑に最も意を注ぎ、溝池を築いて水利を計って、その利便をまっとうしたので、声望はいよいよ高くなった。
 明治になって戸長となり、小学校が創立せらるるや校長となって、格勤精励した。後、職を辞して再び私塾を開き、高陽舎と呼んだ。

 六十歳を超えてもかくしゃくたるもので、その門に遊ぶもの前後千人と称せられた。明治二十三年八月、病んで没した。享年六十八。明治二十二年に門人の建てた懐徳碑が、邸傍の丘にある。
 画は勿論学事の余技であるが、壮年の頃の作には見るべきものがある。
(遠州画人伝より)

こんな画家が菊川(旧小笠町)にいたことを今回初めて知りました。

是非この機会に作品を見てみてください。

ギャラリー画禅庵 佐々木
本日開庵中


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